2007年09月09日

「日経サイエンス」10月号

数日前に紹介した「神は妄想である」の著者であるドーキンス教授と宇宙天体物理学教育研究センター所長クラウス教授との対談「科学は宗教と対立するのか」が掲載されています。
http://www.nikkei-bookdirect.com/science/page/magazine/0710/200710_088.html

唯一神を信じる習慣がない日本の99%にあたる人々にとって科学的進化論を信じる人が米国の10%に満たないことは驚異でしょう。

キリスト教原理主義が権力を握る米国で知識人が無神論を唱えることに「勇気」が必要であることもまた驚異でしょう。

ドーキンス教授が宗教の全否定をするに至ったのは、現在の世界情勢への危機感からなのだそうです。

対談の内容はさておき、「神は妄想である」について少し書いてみます。

米国大統領自ら聖書の予言「最終戦争(ハルマゲドン)」を公言し戦争に突入した事実を前にすれば、その危機感がどれほどのものか日本人にも理解できるでしょう。

前に書いた記事で「欧米や中東ほどには唯一神教による世界観に支配されていない日本のキリスト教徒こそ、平和のために自らの宗教に反対し立ち上がる役割がふさわしい」と書きました。

恐らく日本のキリスト教徒のなかには、「せっかく聖書に書いてある予言どおりになっていく喜ばしい状況なのに反対するなんて嫌だ」と言う人々がいるでしょう。

教授によるとその聖書は、9世紀にわたって「編纂・改訂・翻訳・歪曲および『改善』されてきた」「支離滅裂な文書」なのです。訳者の説明では、日本で出回っている聖書は、その結果生じた矛盾や不穏当な表現が解消されたりやわらげられたりしているために「支離滅裂」であることに気づき難いのだそうです。

聖書が数度にわたる公会議で書き直されてきたことは、日本の高校生だって知っています。つまり予言が実現していくように見えることが「福音」である根拠はどこにもないのです。

根拠のない言葉を信じて戦争をするなんて馬鹿げています。それでもなおキリスト教に寄りすがって生きる人がいるのはなぜでしょうか。

聖職者にとっては、権威や収入源と分かちがたく結びついているがゆえに手放すことができないのでしょうか・・・。

ドーキンス教授が幼い子どもへの宗教教育(特定の教義を刷り込むこと)は、異教徒への差別意識や偏見を助長することにつながる恐れがあるので、止めるように主張しているのは極端でしょうか?

海外のニュース映像で敵味方に分かれて戦う地域の人々が映し出され、幼い少女が嬉々として敵地へ打ち込むミサイルに寄せ書きをしていた姿が私には忘れられません。

子どものうちから誰が味方で誰が敵か、敵と同化してはいけないなどと教え込まれたら、素直にそれを信じてしまう子どもだっているでしょう。

教授は聖書に書いてあることすべてが悪いものだとは言っていません。ただ「道徳の根拠や手本ではない」と言っているのです。

もしも聖書の邪悪で残忍な記述には目をつぶり、よい部分だけを選別するというのなら、「どれが道徳的な断片であるかを判断する何らかの独立した基準をもっていなければならない」と書いています。

そしてその基準が聖書そのものからくることはありえず、信仰心に関係なくすべての人が利用できる基準だろうと言っています。

ちなみに、日本では聖書を読むとき「行間を読め」と指導する聖職者がいるそうです。それを知った外国人が「書いていないことをどうやって読むのか」と嘆いたそうです。

ちなみに、西洋には「哲学は宗教の僕」という意味の言葉があるそうですが、カントは「僕が捧げ持つ明かりを頼りに歩く主人だっている」という意味のことを言ったそうです。

科学と宗教の関係もまたそれに似ているのでは・・・。
posted by PFC at 09:00| Comment(0) | TrackBack(0) | | 更新情報をチェックする
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