※番組の内容はこちらにあります。
明治の文豪夏目漱石の家庭生活を描いた作品。イギリス留学前後を中心とした構成で、ノイローゼだった漱石に振り回される妻子の姿がコミカルに描かれている。家庭人としての漱石の一面が窺えて親しみを抱いた。
翌日の朝日新聞にこの番組を演出した久世光彦さんが「縁側に忘れた連帯感」と題するコメントを載せていた。ドラマはさておき、その内容について。
久世さんは毎年向田邦子さんの作品をTVドラマ化している。その理由を「私たちは戦前のあの時代に何か大事な忘れものをした」と感じ、それをホームドラマで伝えたいと願っていたからだという。
久世さんは、その何かとは「連帯」だという。連帯が生まれる場所として「縁側」がドラマに登場する。かつては縁側から向う三軒両隣まで連帯が生まれ、当時流行った「とんとんとんからりんの隣組」という歌の通りの世界があり、「非常に豊かな時間を共有していたと思う」と久世さんはいう。
娯楽の乏しい時代に家族や隣近所との付き合いが濃密になるのは頷けるけれど、隣組どうしの付き合いから生まれた交流を縁側の効用だとする説はどうなのでしょう?こうさぎの愛読書新明解国語辞典によると、隣組は「第二次世界大戦中、町内会・部落会の下に政府が作らせた地域組織」とある。
いってみれば戦時体制・・・。戦争に協力させるために作らせた組織だったから、終戦後は解散させられたのです。それに隣組が「豊かな時間の共有」をしていたとは考えにくい。むしろ豊かな時間を装った翼賛だったのでは・・・。
戦争体験をもとに創られた小説や映画では、極限状態に置かれた日本人が家族同様の使用人や親しい友人まで裏切って生き延びる様が描かれていることが少なくない。裏切りたくて裏切るわけではないだろうけど、隣組でなくとも、日ごろのつきあいなど生きるか死ぬかの瀬戸際では、あまり役に立たないこともあるのだろうと思う。
平時と戦時の違いを戦後生まれの私は知らない。平時に「私ならこうする」と考えていることが戦時に実行できるかどうか、私にはわからない。自分にわからないことを他人に期待できるものだろうか?
ちなみにネット上の情報を検索してみると、隣組とか町内会の存在に疑問を抱いている人が少なからずいらっしゃるようです。
隣組については
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?qid=862604
町内会と隣組の関係については
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?qid=360143
隣組の歌(曲が聴けます)はこちらのサイトで紹介されています。
http://www.owasechojuen.or.jp/karaoke/shi/04s-ta/05to08-tonari-kumi.html
この曲、どこかで聴いたことがあると思ったら、ドリフタ−ズが替え歌を歌っていたそうです。
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